「俳句」

「俳句」とは?

「俳句とは、思考を刺激する優しくて短い文だ。」 ジャック・ケルアック

エディション・ソイユ社刊、ロラン・バルト作「小説の準備」からの抜粋メモ:

  • 俳句とは、日本を起源とする3行で構成された短い詩である。
    1
    ページに余白を持って書かれ、退屈する暇はないことは誰にでも分かる。ページや時間の間、「間」、「移ろい」: 花が枯れる瞬間、そこでは魂は2つの状態の間の虚で宙ぶらりんになる。ヤマタによれば、俳句とは「心を動かされた永遠の喜びをエッセンスに単純化する芸術」である。リズムは伝統的には、短//短、5/7/5であるが、近代の俳句では自由な形式を取る。

  • 俳句には季語が含まれていなければならない。その単語は非常に短いが、その俳句が書かれた季節に関する手がかりとなるのである。

凩(こがらし)や盻(またたき)しげき猫の面 (八桑)
  • 俳句は「悟り」を引き起こす。一種の動揺であり、意識に軽く触れること、感覚的な平和、感嘆による衝撃である。猫が瞬きをする。そこにいる、そして行ってしまう。

猫の子がちよいと押(おさ)へるおち葉哉 (一茶)
  • 実際にあった瞬間である。本当のことだ。「これだ!」真実の感覚を与える。そういうことがあった。心の底でそれを記憶している。それを感じる陶酔感。同意、支持、承諾を生じさせる。それは絶対的に正しい。現実を分割することで現実の効果をもたらす。

梨むくや甘き雫の刃を垂るる (子規)
  • ここには「触れて感知できるもの」、触れるもの、感覚を刺激するものが多くある。
卯の花も白し夜なかの天の川 (言水)
  • 俳句は時には、共感覚的であり、同時に複数のものを感じさせる。
夏山や杉に夕日の一里鐘 (芭蕉)

  • また時には、詩は一つの芸術を捕らえ、別の芸術を示す。ここでは聴覚は触覚である。
皿を蹈(ふむ)鼠の音のさむさかな (蕪村)
  • 読む者は遮断された音を感じる。
野路の秋我がうしろより人や来る (蕪村)
  • 俳句は日本流の感動を呼び起こす。散らばった感動だ。日本では礼儀は温かく、西洋とは逆に、礼儀正しさと感動が混同される。日本の詩は控えめで、音のない詩情を漂わせる。象徴的になることなく間接的に事物を思い起こさせる。効果の端で止まるのだ。
霧しぐれ富士を見ぬ日ぞおもしろき (芭蕉)
  • 富士は俳句ではタブーである。富士山は取り上げない。強烈すぎるのだ。

    上の俳句は、俳句の400年の歴史の中で唯一、富士山を扱っているが、富士山は隠れている。

  • 俳句には、一種の感嘆である切れ字が使われる。あぁ、おぉ・・・ 本質を捉え、言う:― 「おぉ・・・」
古池や蛙飛びこむ水の音 (芭蕉)
  • 平静は最も重要な感動だと考えていたジョン・ケージの言葉を借りれば、俳句は、「平静の感動」を媒介として最小が最大に戻ることで、我々を永遠、超意識に立ち返らせる。
誰もが眠っている

何もない
月と私の間には  (星布尼?) [原句未詳]

  • 俳句は自然性を思い起こさせる。弟子が賢者に尋ねた。「言葉も沈黙も行きづまったとき、どうすれば過ちを犯さずにすむでしょうか。」と。賢者は答えた。「私はいつも三月の江門のヤマウズラの鳴き声や香り高い花々を思い出す。」と。

俳句にないもの

  • 突出するところががなく、否定的な態度もない。
  • 叙情性も、顕著な恋愛感情もない。カルペ・ディエム(その日と楽しめ)という感覚もない。愛は俳句の逆である。愛は自身について語ることを強制する。俳句は「私」と言うが、それは忘れられるためである。「私」は物体の中に消える。
ひやひやと壁をふまえて昼寝哉 (芭蕉)
  • 真のナレーションはない。良い俳句というのは、続きが書けるようであってはならない。付け足すものも何もない。
泣きながら
座って話す男の子
それを聞く母 (ハスオ) [原句未詳]

  • イデオロギーも意味も、エロティシズムも、象徴主義もなく、重々しさもない。

稲妻に悟らぬ人の貴さよ (芭蕉)

一言で言えば: 天啓、天啓なのだ、絶対に!